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S c a t t e r S


瀬 戸 際

 ふらふらと感情が定まらない自分の悪い癖は、父親似なのかも知れない。
 そう思わせるような行動を取っている今、愚かとしか言いようがなかった。
 けれども、これは自分に課せられた試練。
 曖昧な気持ち、不安定な感情、複雑な関係。
 全てを清算することが出来れば、私は自分自身を認めることが出来ると思う。
 そうすれば、こんな私のことでも理解してくれるはず。
 
 どちらに進むか、瀬戸際の今。

 猶予の期限は、もう目の前だった。

 

―++―++―

 

 「お盆明けたらすぐに行くって、違ったの?」
 煙草を深く吸い込む原谷の顔をまじまじと見つめていると、彼は怪訝な表情を浮かばせて私を睨みつけた。
 「違うって言ってるだろ。まだK社との合意も取れてないのに、すぐ名古屋に行けるかっての」
 いいかげん、信じろよ。
 「………」
 他人(ひと)の言葉を素直に信じられなくなっていたのは、あの男のせいだった。
 好きだとか、愛してるとか、一緒にいたいとか。
 キレイな言葉を並べるだけ並べて、結局は私を突き放したあの男のせいだ。
 「あーでも、当初の予定よりかは少し早くなるわ」
 「いつ?」
 「10月中旬の予定だったけど、頭になるな」
 「…そう」
 薄い茶色のグラスを両手で包み、ひんやりとした感覚を手の平に伝わせる。
 昨夜、具合の悪くなった私はそのまま眠りこけ、目覚めた時、原谷はいつの日かの朝のようにシャワーを浴びた後のすっきりとした姿でいた。
 「…シャワー浴びるか?」
 「え?」
 「他意はねぇよ。お前、気持ち悪くない?昨日のまんまで」
 確かに、気持ちが悪い。
 顔もベタベタしているし。
 でも。
 「着替えないし、その、シャワー浴びるのは、ちょっと、図々しい気がするのですが…」
 「なに改まってんだよ。着替えならあるぞ」
 「え?」
 「昔の女の忘れ物」
 「えぇぇ!?」
 昔の女の忘れ物って!
 「いやだ、」
 「嘘」
 「よ…って、嘘ぉ?」
 「浅野は、少し人の言葉を鵜呑みにしすぎるな」
 「………」
 信じることは出来ないくせに、鵜呑みにすることは出来る。
 …なんだか私、どうしようもなく愚かな人間みたいじゃない。
 「…拗ねんなよ」
 「拗ねてない」
 「拗ねてる」
 「拗ねてません」
 「じゃ、キスしていい?」
 「は!?」
 キス!?
 「ほら」
 「?」
 「鵜呑みにした」
 「………」
 なんの話をしていたのか、分からなくなる。
 原谷ってこんな人だったっけ?と思いながらウーロン茶を飲み干してから、一言物申した。
 「シャワーお借りします。Tシャツか何かお借りしてもよろしいでしょうか」
 不適な笑みを浮かべた原谷は、かしこまりました、ごゆっくり。とだけ残して、煙草を灰皿に押し当てた。

 

―++―++―

 

 今日は家まで送るよ。
 軽い朝食を一緒に取り、少ししてから原谷が車を出してくれた。
 家の住所を言うと、何も言わずに車を走らせ的確な道を走り出す車。
 「眠かったら寝ててもいいぞ」
 静かなウィンカーの音が鳴り響く車内で、原谷が一言呟く。
 音楽もラジオも流れていない車内は、何故だかずいぶん心地よい空間になっていた。
 「ううん、大丈夫」
 「…昨夜のことだけど」
 突然、話が時間を遡り私は一瞬にして昨夜の出来事を思い起こした。
 あの時は好きです、と伝えたかった。
 自分の感情が上手く伝えられる気がしていた。
 お酒の力によってでの高揚感もあったかも知れないけど、はっきりとそう思っていたことは確かだった。
 けれど。
 「昨夜から、お前の考えは変わってないのか?」
 「え?」
 まるで、あのあとの言葉を知っているかのような口ぶりに、思わず原谷の横顔を直視する。
 「変わってないのか、って聞いてんの」
 真っ直ぐと前を見据える原谷の視線。そういえば、朝食のあたりから原谷と目を合わせていないような気がする。
 今、彼はどんな瞳でいるのだろう。ふと、そんなことが気になった。
 「…変わってないって言ったら?」
 「………」
 車は、国道に出た辺り。ここを道なりに進んでいき、15分程走ったところで左折。そういう道のりのはずだった。
 「………?」
 車は突然、国道から逃げるように右折した。
 「変わってないなら」
 シャツの胸ポケットから煙草を取り出しながら言葉を続ける彼の口調に、段々と刺々しさが混じってきた。
 「今すぐ言えよ。昨日の続き。早く」
 ライターの火を一瞬目で確かめながら、煙草をそれにあてる。
 苛々しているのか、大きく深呼吸をするかのように煙を吸い込むと、勢いよく吐き出した。
 視界が、紫煙で覆われる。
 クーラーの効いた車内に煙が充満すると、原谷は運転席の窓を開け煙を逃がそうとした。けれど、生温かい外気が入り込んできて余計に煙が嫌なものになっていく。
 「…なに、怒ってるの?」
 「怒ってない。苛々してるだけだ」
 「それって、イコール怒ってるってことじゃない?」
 「ちがう」
 「………」
 いい加減、原谷も私の優柔不断さに辟易しているのだろう。
 もう、彼は、気づいているんだ。
 車が、どんどんと家へ向かわずに違う道へ走る。方角は、北。
 走り続けると、海に出てしまう。

 

―++―++―

 

 新川通から337号線にぶつかるT字路で右折。それからすぐに左折。車は石狩湾新港の方へ走っているようだった。
 昔、両親と一度だけ来たことがある。父親は釣りの好きな人だったけど、誰か他の人がいると集中できないと言い、いつも一人で釣りに出掛けていた。
 けど、ある日一度だけ、石狩湾に連れてきてくれた。
 思えば、あれが一緒に出掛けた最後の時だった。
 「浅野をさ初めて見た時。俺、今じゃ考えられないぐらいになんっとも思ってなかったんだ」
 窓の外の工場地帯を眺めていると、突然突拍子もないことを言われ、一瞬吹き出しそうになった。
 「なに?いきなり」
 「いや、なんで浅野のことこんなに好きになっちゃったのかなーって考えてた」
 「………」
 なんの飾りっけもなく素直に"好き"と言われると、なんだか体中がむず痒い。
 「…で、答えは出たの?」
 「んー、」
 原谷にしては珍しく間延びする声。
 「きっと」

 「………」

 「あ、なぁアレ」
 大きな倉庫らしき建物が見えてきたところで、急に話しの方向が180度変わり、何故だか興奮気味に原谷がその倉庫を指差してくる。
 「アレさ、UFOの製造基地みたいじゃね?」
 「ゆーふぉー?」
 それほど高さはないけど横に長い倉庫。
 …UFOねぇ。
 「…意外。原谷ってドリーミーだったんだ」
 「夢じゃなくて、あれは現実だ」
 「結構、素っ頓狂なこと考えるんだね…」
 「悪かったな」
 「別に悪いって言ってるわけじゃ、」
 「なんかさー、会社での俺って変なイメージついてるだろ?」
 会社での原谷?
 「有限実行だの、仏頂面の愛想無しだの、無慈悲だの」
 「そこまでは…」
 「"そこまでは"ってことは、現になんやかんや言われてるだろ?」
 確かに。
 私の身近な存在の中では、特に留美子がその手の噂やらを入手してきて、その都度私に報告してきてくれた。
 "人事部の主任に、なんであんな奴雇ったんだって言ったらしいよ!超冷めた顔で!"、"藤川君と二人でプレゼンの準備してたらしんだけど、藤川君が仕事出来なさ過ぎるからって、課長に言ってパートナー変えてもらったらしいよ!"
 と、何度も何度も原谷の話しを聞かされた。
 「仕事は仕事。割り切ってやってるうちにそうなっちゃったんだ」
 「ふーん」
 「お前もそうだろ?」
 「わたし?」
 原谷曰く、UFOの製造基地らしき建物を通り過ぎ、車は青看板通りに見ると、花畔(ばんなぐろ)の方へ走っていた。
 「仕事中に感情的にならないし、割り切ってるのかそれとも感心がないのか、いっつも平然と仕事をこなしてる」
 俺とかぶるなぁ、って思ってた。
 「そうかな?」
 「そのうち、目でお前のこと追うようになってて。ガキみたいに浅野のことばっか見てた」
 「………」
 それほど見られていたとは…。
 「で、気づいたんだ」
 車に乗ってから二本目の煙草を取り出す。
 「"あぁ、この人は諦めてるんだ"って」
 「…諦めてる?」
 今度は火を点ける前に運転席の窓を開けると、今度は少し潮の香りを含んだ風が車内に入り込む。
 「何に対してなのかは分かんなかったけど。俺にはさっぱり分かんなかったけど、何かを諦めてるんだなって」
 「………」
 諦めてる、か。
 「…そこをまぁ、なんていうか。なんとかしてやりたくなったんだ」
 「…哀れに思ったから?」
 「それもあったのかも知れない。浅野にとっては不謹慎かも知れないけど。だけど、それだけじゃなくなった。初めてだったんだ」
 こいつを守りたいって思ったのが。
 「………」
 何故だか、うっすらと涙が滲み出てきた。あの男に好きだって言われた時とは違う、安心感のようなものが私を取り囲んでいた。
 こんな自分を、守りたいなんて言ってくれる人は、この世にいないと思っていたから。
 どこまでいっても、自分は一人なんだと、いつも思っていたから。
 途方もなく続いている道を、自分だけを頼りにしていかなくてはいけないと、いつも思っていたから。
 "別れ"がある度に、そう強く思っていたから。
 「…ありがと」
 自然とこぼれる言葉。
 それ以上はもう、何も言えなかった。
 「けど、」
 私の涙に気づいているのか気づいていないのか、原谷は言葉を続ける。
 「お前の兄貴」
 「え…?」
 「あの人だろ、お前をそんな風にしたの」
 「………っ」
 「前にコンビニの近くで会った時に浅野の様子を見て、一目で分かったよ。けど、まさか兄妹で恋愛沙汰はないだろうから、他によっぽどひどいことでもあったのかって思ってさ。色んなこと想像したよ」
 「ちがうのっ、」
 「え?」
 「あの人とは、その…」
 「………」
 車はいつの間にか花畔ふ頭を通り過ぎ、東ふ頭の方へ走っていた。
 「本当の兄妹じゃないの…」
 「え?じゃぁ、…義理?」
 「うん…母親が再婚して…」
 社会人になってから、初めて人に打ち明けた、嫌な事実。
 原谷は一瞬戸惑ったように一つ咳払いをし、つけたばかりの煙草を消してしまった。
 「じゃあ…もしかして…」
 「…好き、だった…」
 「………」
 真っ直ぐに伸びる道路の先を見つめたまま、自分でも驚くぐらい小さな声で呟いていた。
 誰にも言うもんかと決め込んでいた想いを、打ち明けてしまった。
 「…過去形なのか?」
 「………」
 その、つもりではいた。
 「あー、あの時ふられた理由は、あの人だったのか」
 「………」
 その時、頭の中ではあの男と札幌駅の改札口で再会した時のことを、反芻していた。
 再会した時の胸の高鳴りようは、今でも鮮明に覚えている。
 「で、義理の兄貴とはどうなってるんだ?」
 「………」
 ここまで言ってしまったら、最後まで告白しようと思った。
 「…一度、付き合った。けど、やっぱりダメだった。お互いの感情が上手く重ならなくて…」
 「ふーん」
 ひどく冷たい返しに、私の指先がどんどんと冷たくなっていく。
 何故だろう。なんでだろう。
 あの男の話をするだけなのに、体中が緊張している。
 「…でも、まだ好きだろ。その人のこと」
 「え?」

 「まだ、終わってないだろ?」
 自分では、終わったつもりではいる。
 「終わったよ。本当に」
 「終わってんなら、」
 さっさと俺のもんになれよ。
 突然車を路肩に停めると、原谷の左手が私の後頭部を抑えてきた。
 とても長く感じるような時間の中で、徐々に原谷の険しい表情が近づいてくる。
 
 "好きだ"
 
 急に思考回路を遮る言葉。
 初めてキスをした、暗闇。
 何もかも捨ててもいいと思ったあの時。
 離して欲しくない一心で、抱きついた。
 好きだと、何度も言うあの男の唇。
 揺れる、地下鉄。



 文字通り、走馬灯の様にして頭の中で甦ってはすぐに消えていく言葉や場景を、私は何をすることなくそれらを手離していた。不思議なぐらいに、静かに手離してゆく。


 瞼の裏にすみついていたあの男の表情は、いつしか闇に覆われていた。


 その瞬間。
 「だめっ!」
 強く胸を押し付け、原谷を遠ざけてた。
 自分でも驚くぐらい大きな声を出してしまっていた。
 「…ご、…ごめんなさい…」
 堪えきれずに溢れ出る涙。
 耐えきれずに溢れ出る感情。

 「…悪かった」
 ちがうのっ。
 「…っ、」
 悪いのは原谷じゃない。
 自分の考えも感情も何もかもコントロール出来ないでいたこの私。
 原谷は受け止めてくれようとしてくれた。こんな私を、辛抱強く待って、それでも待って、待って待って。
 計り知れない時間を、原谷はこんな私の為に待ってくれた。
 「ちがうのっ…ごめ…」
 謝っても謝りきれない。
 「…一つさ、素直に答えて欲しいんだけどさ」
 「……っ、な、に?」
 「もし、その人がいなかったら、俺のこと好きになってくれてた?」
 あの男がいなかったら?
 「…う、…んっ…」

 好き。大好き。
 いつからだろう、自分は気づかぬうちにこれほどまでに原谷を欲してた。

 これほどまでに自分を想ってくれる人はいない。今すぐにでもその胸の中で包んで欲しい。
 強く、温かく。
 「はらやのこと…本当、すきなの…っ」
 「………」
 「好きなのっ、……っ」
 「ごめん、もういいよ。何も言わなくていい」
 「………ありがとうっ」
 泣いて、泣いて。
 涙腺が故障しているんじゃないかと思うぐらい泣いて。
 そんな私を見てられなかったのか、原谷は黙って車を降りた。
 「……ひっ、」
 車を降りられてしまったことに対して、私はひどく淋しく思っていた。

 「…はらや…」
 小さく、声に出して名前を呼んでみる。
 「…す、き」
 私、さっき原谷のこと好きって言っていた。ただ心の中で思っただけではなく、言葉にして伝えていた。
 今頃気づく自分の言動。
 昨夜言えなかった、"好き"の一言を、さっきあの状況下で言えるなんて。
 自分の中でもうとっくに生まれていた感情なのに、最後の最後の瀬戸際でようやく出てきた事実。
 何故だかとても深く安堵すると共に、少しだけ自分に呆れてしまった。



 "お前のケツに欲情した男みたいになってしまうわ"

 
 最初にお互いの存在を違う意味で感じ合った瞬間。
 なんの深みも愛情も感じられないような言葉だったけど、私達の間では確かに何かが確立しようとしていた。
 でも、それは、過去のこと。
 暗闇を取り込んだかのようなあの男の顔しか思い出せないでいる私は、自分の手に負えなかった感情にさようならを告げたのだと思う。
 何より今は、隣にいる原谷への想いで押しつぶされそうになっていた。
 …あの男のことは、確かに好きだった。
 でも、それは"愛してる"とは言える様なものではなく。
 私は自分のモノにしたいが為に躍起になっていただけなことに気が付く。
 自分でも恐ろしく思えるような感情に気が付いた瞬間が、今だった。



 さっきの涙は、過去の自分とのお別れの挨拶。
 リセット寸前の出来事を拒んでしまったけど、今なら大丈夫。 


 もう、終った…。

 
 不思議と、頬が緩む。
 温かいスープを飲み干した後のような感覚。
 指先の温度が戻ってくる。

 

 開け放していた窓から、新しい風が入り込む。
 

 …原谷にきちんと伝えよう。
 今まで持て余していながらも、ずっと言えなかった言葉を。
 勢いまかせではなく。
 今日の海のように。
 静かに。
 穏やかに。


 ――好きだよ。

 

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